こんにちは!Izumiです(@idumi_0c0)
自分の意思とは関係なく変化を求められることって意外にも多い。変えられなものを知るというのは次に進むために必要なことではないだろうか。
抗いながらも受容していく
よくいう言葉だけれど、自分が想像していた年齢と実際、自分がその歳になってみて思う「自分像」にかなりの差がある。
歳をとったからと、自然と中身が付いてくるわけではないんだと日々を追うごとに思います。いや、もっと言えば親になった時からかもしれません。
もちろん、出産・育児をする中で、それまで自分の中にはまったくなかった「お母さん」という新しい自分ができた。
ちゃんと“らしくはなる”と思うと動物ってすごいなと思う。それでも、自分が想像していた「大人像」とは少し違ったりもする。
一日中、子どものことが頭にあったり、基本的には子どもを中心として生活がある(子どもが小さければ小さいほどそうだろう)けれど、自分が思うより”親らしく”もなれているわけでもない。

きっとそう感じるのは、あまり寛大になれていないからだろうな。自分が子どもだった頃の周りの大人(特に親)たちのイメージからそう感じるんだろう。
自分を取巻く大人たちは、いい意味でも悪い意味でも見本となります。ただ、一定の年齢をすぎたなら、どんな大人を手本とすべきかは自分で選択ですることができると思っています。
寛大さはどこからやってくるのか
私は自分の周りにいた大人たちのように、寛大になれるんだろうか。とふと疑問に思うことがある。とはいえ、結局は目に見える部分しか分からないので、大人も大人を演じているだけなのかもしれないけれど、私は演じられるだけ大人だとも思う。
これは別に子育てに限ったことではなく、自分の近しい環境であればあるこそ、寛大さや寛容さが減っていくのは私だけだろうか。
望む・望まないは関係なく変化していく
人は常に同じ状態ではないじゃないですか。成長して色んなことができるようにもなるし、老いて段々と色んなことができなくなってくる。
自分の中で、段々と切り替えていけたり、受容していくのってものすごく大事なことだなと思うのです。諦めるのは簡単だけど、ありのままを受け入れていくってなかなか難しいことです。
方向転換や切り替えが上手くいかないと、諦めるか、卑屈になるか、固執して選択肢を狭め機会を逃してしまうのかもしれないなぁと。
何も自分らしさを捨てることではなくて。変わりゆくものを認め、自分の立ち位置を変えてみると楽かもしれないと思うのです。
年配者から学ぶこと
週末、スクーリングに行ってきました!
キャンパスでのスクーリングで両日とも学食がやっていました😊(ラッキー)
同じクラスの生徒さん達と一緒に🥄
通信課程では自宅学習が基本なので、なかなか大学生活を十分に味わえないけれど、こういう事がたまにでもあるとモチベーションに繋がります。
60代の方はこれまで何人かお会いしたことがあるのですが、今回は70代の方もみえました。
70代で現役で仕事しながら大学生ですよ。スクーリングは朝9時スタートで終わりは19時近くまでの授業を2日間連続ですからね~
他の生徒さんに聞いたところ、すごい早いスピードで履修されてるらしい。
それに対して「ほら。私たちは先が短いから!早くしないと!」なんて謙遜ではなく、笑いで返すユーモアさ。
「若い人からエネルギーを吸い取って帰る」と笑っておられました。
潔さというのだろうか。なんて素敵なんでしょうね。
私もそういう風に歳をとりたいな。と思いながら、私はまだまだ振り切れそうにもありません。
私の頭の中と同じ。
とっ散らかっておりますね。
部屋の汚さは心の乱れであるならば、机上は脳内の乱れではないかと思う。
山積みのレポートと試験勉強についつい弱音を吐く自分がおります。
「何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府には仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ。」
コヘレントの言葉を見て頑張ろうと思っているところです。
限りがあると意識することで、ちょっとした挑戦心すら湧いてくるかもしれません。
もうすぐクリマスマスですね🎄
みなさんはどう過ごされますか?
ここまで読んでいただきありがとうございます。
