私は「お母さん」と呼ばれることが嫌いだ
←のっけから荒ぶり模様で失礼。(どーも!Izumiです!)
は?あなたお母さんでしょ
という言葉が聞こえてきそうなのでもう少し具体的にいうと、学校や病院など子どもを介して「お母さん、お母さん」と言われることに、とてもストレスを感じる自分がいることに気がついた。
一応言っておくが、私がお母さんなのは事実で、お母さんと呼ばれることが当たり前なこともわかっている。別に私を「個」として苗字や名前で呼んで欲しいとか、そんなことでもない。
じゃあ、なぜこんなにも嫌悪感を感じているのか?と言えば、お母さんという言葉の重圧に押しつぶされそうになっているからだ。
「お母さん」が重荷になる理由
私には、今年10歳と12歳になる子どもが二人いる。
小学生にもなると、学校の先生と直にやりとりするのは年に2度ほどある懇談会くらいだ。反対に言えば、とくに何も問題がない場合、その年2回(しかもたった10分程度のやりとり)以外で担任と話す機会はない。
先生と話す機会がある=何かしらの問題があるとき
子どもに問題が生じている時というのは、同時に親も何かしらの問題を抱えている時だと私は思う。
子どもの不調は親の不調
以前YouTubeでは話したが、年末から我が家は大荒れで私は心身共に相当なストレスに苛まれていた。仕事、家のこと、大学の卒業に国家試験の受験。自分が思うよりもずいぶんと疲れていたようだ。
不調の始まりとして、まず眠れなくなった。
始めの頃はまだ軽いものだったが、何日もその状態が続くとさすがにこたえる。
状況がひどくなる前、妹に「最近寝れないんだよね。国家試験のプレッシャーかも」なんて笑って話してた。そこで妹からってきた言葉は
「そんなタマだっけ?」
自分でもそう思った。
私は自分が思っているよりも、ずっとずっと弱かったようだ。
しばらくして私の不調が子どもにまで影響し始めた。
下の子に学校の行きしぶりが出たのだ(正しくは再発)当然、私は身も心もボロボロな状態で現実に向き合うことになった。
その日から、毎日何度も何度も学校とのやり取りが始まった。
一日に何度もなる電話。先生方には申し訳ないが、正直うんざりだった。
子どもの成長も学校に行けないことも、その対応も。
この世界の中で誰よりも我が子を心配していて、今のこの状態を脱したいと願っているのは私だ。
もしも私が何かをすることで、明日から何事もなかったように、今の現状がひっくり返るならば当然やってるに決まってる。
余裕のない人間丸出しだが、この言葉から感じてもらえる通り、子どもの不調は親の不安となる。
差し出された優しさすらも上手く受け取れない。私にどうこうできる問題ならば、とっくに解決している。
向き合う力がない時もある。
そっとしておいて欲しい時もある。
母親は強いわけではない
母親はスーパーウーマンではない。むしろ、世間がイメージする「お母さん」よりもずっと弱い時もあるのだ。
少なくとも、私は先生や世間様からの期待に応えられる器は持ち合わせていない。
人間、自分が弱っている時に頼られることほど重圧に感じることはない。それにも関わらず子どもに問題があったときは必ず
「お母さんも一緒に・・」
「おうちの方でも・・」
もう耳タコである。
何かに悩み、追い詰められている母親をこれ以上追い詰める言葉はない。
ひどく落ち込み疲弊した人間に輪を掛け「頑張れ!頑張れ!!」と言っているのと同じことではないだろうか。
少なくとも私はそう感じてしまう。
これ以上、何を頑張れというのか。
子どもと学校(先生)の狭間で、答えも期限もない問いをひたすら自分に問うだけ。
子どもに何かある度に思うが、親というのはそう大層なものではないし、親が子どもにしてやれることなんて実際問題たいしてないのだ。
すべての外敵から子を守ってやれるわけではない。
多少なり手助けになるようなことはあっても、実際に毎日を過ごし人生を歩んでいくのは子ども自身なのだから。
結局のところ、親は少し離れた場所から見守るしかない。だからこそ親は苦しく、身が削られるような気持ちになるのだ。
母親が感じる見えない重圧
口に出してこそ言わないが、やはり「母親だから、これぐらいはやれるだろう(やるだろう)」と、多くの人が一般的に求めるレベルというのは確実に存在していると思う。
そして、私たち母親はそれを感覚的に肌で感じている。だからこそ求められている母親像と実際の自分の狭間で疲弊するのだ。
そして少し頑張れば、良くも悪くもそれなりに出来てしまうところが結果自分を追い込むことに繋がるのだけど。これでも性か。
人は知らず知らずのうちに、役割に対しに当然として期待を持ったり、当たり前のように要求してしまったりするもの。これ自体は何も悪い事ではないし、役割があること期待されることは人の喜びにも繋がる。
ただ、これを本人が求めていない場合、またはその人のキャパシティーを超えてしまっている場合は負担になってしまうんじゃないだろうか。
理想と現実の自分
自分自身に理想はないと長年思ってきた。具体的に「こういう女性になりたい」とか「将来はこういう風になって、こういう道を進んで」みたいな具体的な人生設計はなかったからだ。
しかし無意識下では、意外としっかりした「理想の自分像」をもっていたのかもしれない。
そして今更ながらその「完璧な像」と「リアルな自分」の差に疲弊しているんじゃないかと思うようになった。
周りから「お母さん、お母さん」といわれる事で、自分の中にある「理想の母親像」(子どものためにシッカリと時間を取り向き合うことのできる母)と「実際の自分」(理想と真逆のゆとりなし人間)にずれが生じているからストレスが溜まる。
ハッキリと言ってしまえば、他者から「お母さんの役割」を求められることがストレスで仕方ない。
必死に平常心を装い振る舞ってはいるが、すべてを投げ出したくなるようなやべぇ精神状態のなか、さらなる親としての務めを求められる。
自分の努力や頑張りは理解されていないと思うと悲しみ、苛立ちになることもある。
当然、相手方に悪気がないことはわかっている。ただ、これは私がそう感じてしまうだけの話なのだ。
自分を助ける魔法の言葉
器が小さいくせに「できないです」「わたしには無理です」とハッキリと口に出すことが昔から苦手だった。
それは何故か、
人から嫌われることが嫌だったから。
できないと思われたくなかったから。
大人になり、ふてぶてしさも多少なり出てきた。昔ほど人の目も気にならなくなった。それでも完全に昔の自分が消滅したわけでもない。
とくその対象が子どものこととなれば、なおさらである。子どもに関することに対して「私にはできません」ということは、親としての倫理観を問われるような気にすらなるから
「できない」と口に出すのハードルの高さを知っている。口に出すことは自分で自分を認めてしまうことだから。
でもその結果として、自分で自分を呪縛かけ苦しめている。じゃあどうしたらいいのか?
それは「今の私には難しい」と言い換えることだ。
「本来の私」ではなく、あくまで「今の私」
もし今、辛い状況にあるのなら、ぜひ「今の私」という言葉を使って欲しい。
なぜならば、それは「本来の、通常の自分の状態」ではない、いわば危機的な状態にある私。だから今は100%の力でコミットできなくても仕方がないと思えるのだ。
自分とうまく付き合っていく方法として、いかに「自分にとって都合よく物事を考えられるか」というのは意外と重要なことだと私は思っている。
相手に伝える時、ただ単に「できない」「無理」というよりも「今の自分には負担」と言い換えるだけで、ぐっと敷居が低くなる。もちろん聞く側のニュアンスだって全く異なる。
何気なく口にする言葉ひとつひとつには、自分が思うよりも大きな意味がある。
まとめ
人間である以上、完璧にすべてがこなせるわけもないし、そもそも何をもって完璧というのかもわからないような、ぼんやりとした「理想の母像」を追いかけ、疲弊しているようにも思う。
誰かに求められたものなのか、自分が勝手に作り出したイメージなのかはわからない。「ありのままでいい」と言いながらも、心の奥底の部分では、本当の自分に納得できていないのも嘘ではない。
ただ、言葉には自分を信じ込ませる力がある。自分の発した言葉は自分が一番よく聞いているからだ。
いつかこの魔法の言葉が、本当の自分の考えに変わっていく日までの魔法の言葉。
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