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馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない

馬が水を飲んでいる

こんにちは! Izumiです。

今日は「イギリスのことわざ」の話をしたいと思います。

目次

馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない

馬

You can take a horse to the water, but you can’t make him drink.

「馬を水辺に連れて行くことはできても水を飲ませることはできない」

まさに、その通りだなと思います。

なにも動物に限った話ではなく、人との関係でもそのまま言えること。

いくらあれこれ考え、そうなるように道を作ったとしても、最終的に選択するのは当人であり、だれも強制することなどできない。

こういうのは、自分に置き換えるとわかりやすい。いくら人に言われたところで、自分の中で納得し、必要だと思わなければ行動には移さないものですよね。

自分にできることと、そうでないこと

子育てなんてまさにそう。子どもと親は別の人間であるけれど、子どもが小さければ小さいほど、手取り足取り、親が中心となってあれこれと進めていく。

けれどある時期を超えた時から、やるもやらぬも全ては本人次第。
親は徐々に手を離し、時にはグッと堪えて我慢する時も必要になります。

生活の中心は「家」や「家族」であるけれど、それ以外の集団生活「友達」や「先生」「会社」「地域」など色んな人と関わることで、その人らしさが確立していく。

うちの子ども達をとってみても、同じように育ててきたつもりなのに、性格も特性も全く異なる。もちろん、これは当たり前なんだけども、実際に子育てしていく中で「兄弟でこんなにちがう?」とびっくりすることも多々あります。

とくに、上の子は親の私にとって全てが初めて。色んな意味で最初の子が成長曲線のようなものです。このくらいの年齢になればこの程度のことができるとか、こういうことを言い始めるとか、やり始めるみたいな感じに。

もちろんそこには気質というか、性格というかあるんだけれど。小さい頃よりは確実に「いろんなことができるようになり、しっかりしてくるだろう」という前提の元、色々と考え、子どもに求めている気がします。

自分の子ながらに、上の子はホントに真面目な人だと思う。私の方が適当なくらい。手助けすることはもちろんありますし、子どもなんで親(私)に当たり散らすこともありますが、それは彼の真面目さゆえというか。苦労するところでもあり、良い部分であり。

一方で、次男は真逆のタイプ。まぁ、こちらも結構神経が細かいというか、真面目ではあるんですが。もっと全体的に子どもらしい。もともと成長がゆっくりなので仕方がない部分もあるんですが、そういうのを抜きにしても子どもらしい人。

小さい頃の学習の速さや運動神経って、その人が元々もつ能力が割と大きいと思っていて。成長していく上で、本人の努力や周囲からの影響も大きくプラスされていくんだけど。

逆に日常生活で私たちが何気なくする行為って元の能力というよりは、生活の中で自然に身に着けていくものだと思っていたんです。

その一つが、片付け。

人によって意味づけは異なる

私自身、そんなに綺麗好きではないですが、あんまり物が散乱しているのは好きでないし、どちらかというとスッキリ暮らしたい人。

とは言え、毎日完璧に片づけなきゃイヤだ!とかそういうのはない。ただ、家も狭いし(いや広くてもだな)床にカバンが転がっていたり、服がその辺にあるのはイヤなのね。

もちろん、子どもなので

[jin_icon_check color=”#f0f8ff” size=”18px”]カバンを置きっぱなしにする。

[jin_icon_check color=”#f0f8ff” size=”18px”]服を脱ぎっぱなしにする。

[jin_icon_check color=”#f0f8ff” size=”18px”]おもちゃが至る所にコロコロしている

こんなことは日常茶飯事。
で、私も我慢の限界がきて「片付けて!」となるわけです。

お兄ちゃんの方は上手いこと片づける。一方で弟の方は、縁の方に何でもなんでも集めて積み上げているだけ。それを見て

なんだ・・・これは・・・

と思うわけですよ。
それは片付けじゃなくて「ただ、集めただけ」じゃんと。

でも、たぶん次男からするとそれは「片付けた」なのだと思うのです。整理整頓に限らずですけど、人によってやり方が違うし、意味付けも違う。

私や長男ように「本来あるべき場所にしまっこそ、片付けた」と思う人もいれば、次男のように「一箇所にまとめてあれば片付いている」と思う人いる。

どの状態を良しとするかなんてものは、人によって違いますから。

で、本来は違っていていいんですよ。でも、一緒の空間に暮らしていたり、自分に関わることなんかになると目がついて、気になって仕方がない。

強制は意味をなさない

でも、そんなものは強制してもあんまり意味がない。片付けたところで、本人が「片付けた部屋って気持ちがいいな」とか、いい感情や楽しさを感じられたら自然とやるはずなんです。

だって本当に不快ならば、なんとか変えようとするはずだから。

でも、やらないということは、そうは思わないわけ。別に部屋が汚かろうが、物が取っ散らかっていようがどうでも良くて、本人にとっては大した問題じゃないというわけなんですよね〜。

でも、注意している本人からすれば、嫌で改善したくて言っているわけで。それはすごくわかる。気になるよねー。気になるんだ。。

ただ、その人に必要ないとこをさせようとしても無理だし、仮にその時はやったとしても、それは「ただやらされているだけ」なので意味のないこと。

自分だって、なんの興味も湧かないことや、関心のない事をひたすら言われ続けても、なんにも心に響かないですよね。むしろ更に逃げ出したくなってしまう。

解決策

そこで、お互いに譲り合って、やれる人がやればいいんじゃないかな〜と思ったわけです。

難しいことですけどね。
怒ったところで、大した意味はないというか。

お互いにストレスが溜まるだけですから。なぜそれが自分にとって必要であるか、それを嫌に思っていることを伝えた上で、相手のできない理由も聞きつつ、妥協点を見つけるのが一番よいのではないかと思ったのです。

まとめ

片付けに例えて話しましたが、これって対人関係すべてにおいて当てはまることだと思っていて。

相手に希望を伝えること、自分の気持ちを伝えることはできても、最終的は判断は本人がすることであり、それ以外の人は見守ることしかできないということです。

事によっては妥協では済まず、理解できない、納得できない場合もあるもの。
そうなれば、そうなったで新しい道を探すしかないということかな。

 

ここまで読んでいただきありがとうございました♪

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2児のシングルマザー。離婚後の不安をキッカケに高認試験(旧大検)を受験→通信制大学に入学。4年間で最短卒業しその後社会福祉士の国家資格を取得。崖っぷち人生を好転させるべくブログやYouTubeで離婚後の人生を発信してます。

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